そのたま! その銃弾が、確かにセカイを変えたのだ

第一章

 その国は、海のきれいな土地柄であった。
 海べりに建てられた簡素なアパートメントの一室で、少しだけ開いた窓の隙間から吹き込んでくる風を浴びながら、ニコルは、目の前に広がる静かな海原を眺めていた。
 曇天。波はほぼ凪いでいる。まるで大きな人の両腕が抱き抱えたような形の、左右から囲むように張り出した岸壁によって外洋と隔てられた、広くて穏やかな内湾だった。
 遠く、砂浜のほうを海鳥が何羽かぐるぐると飛び回っている。夕方だけあってまばらだが、海のそばで働く者たちが、その日の労働の後片づけに勤しんでいるのが見て取れた。
 港湾国家エルメデ。国民のほぼ大半が漁業活動に従事している小国である。海からの豊かな恵みによって、彼らは日々の暮らしの糧を得ているのだった。
 バルコニーの窓際から離れると、ニコルは、部屋に備えつけの小さくて簡素なダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。ひっそりと静かな室内に、椅子の引きずられる音が響く。背もたれにゆったりと身を投げ出しながら、彼はテーブルの上のコンピューター端末に手を伸ばした。すでにしばらくの間、そうして端末に向き合っては、窓の外を気晴らしに眺めることをくり返しているのである。
 ファンが回転する鈍い音が響き、機械が待機状態から回復していく。小さなモニターに文字が浮かび上がるのを確認すると、キーをすばやく叩いていった。
 エルメデの経済の基幹部分を担っている、港湾での漁業労働。その日々の業務の役割分担を効率的に処理するための就労管理システム画面が表示される。ニコルが端末を操作すると、画面の表示が次々と入れ替わっていった。港湾エリアの清掃業務。外洋で漁獲された魚介類の缶詰加工業務。等々。何の変哲もない、エルメデで暮らす者であれば一度は経験したことのあるような各種の労働が並んでいる。ニコルは、画面を切り替えては凝視する地道な操作をしばらくくり返していった。
 どこにも、異常は見当たらないようだった。こうして見る限り、窓の外ののどかな風景も、港湾の労働の割り振りも、いつもと変わらない日常のなかで動いている。何も問題はないのだ。彼があえて非日常的に動かなくてはならないほどのことなど、何もない。
 だが。やがてひとつの画面を表示させたところで、ニコルの手が止まった。画面をじっくりと見て、内容を確認する。臨時に登録された、見慣れない最新の業務募集情報のひとつが、彼の注意を引いていた。国家といいながら全体ではひとつの大きな街でもあるエルメデの、統治管理のためのエリア。アーキテクト領域と呼ばれる場所。その一般市民は立ち入りを厳しく制限されているエリアに隣接する区域での、公共建築物の修理業務だ。
 窓から、相変わらず、風が吹き込んでいた。ニコルはその潮の香りを含んだ風を心地よく感じながら、しばらく、椅子の背もたれにもたれ掛かって目を閉じていた。そして、身体を起こすと、画面を操作し、該当の業務の詳細情報を表示させた。
 若干名から10名程度の募集。ガス伝達配管の老朽化に伴う故障の修理。緊急案件につき急募。そうした募集だからといわんばかりに、報酬はかなりの高値に設定してあった。
 問題はその建物の場所だ。ニコルの記憶によればそこは、アーキテクトたちの居住区と、統治管理区域とを結ぶ高架鉄道の、通り道に当たる。エルメデの地理は頭に叩き込んであるから間違いない。漁業活動に従事しているほとんどの人間であれば、その募集を見ても何ら違和感を覚えなかっただろう。
 ニコルは、「募集中」の項目を選択し、完全に暗記しているアカウント情報を瞬時に叩き込むと、そのアサインを確定させた。これで、エルメデ全土の労働需要と供給を適切に管理している就労管理システムによって、業務への参加から報酬の支払いまでのフローが自動的に管理されることになる。
 続けて、端末を操作した。メール送受信のツールを起動する。短い文章を打ち込むと、送信ボタンを押した。メールが送られたのを確認すると、ニコルは再び立ち上がり、キッチンの隅でぬるくなっていたマグカップのコーヒーを手に取り、飲み干した。窓の隙間から、潮騒の音が小さく響いてくる。そんな、のどかな夕刻でありながら、彼は、日常性という守るべき規律を妨げる、小さな不協和音をはっきりと認識していた。

 前略 港湾労働組合第三課 ヨルテ殿
 労働管理システム上の募集情報を詳細に検索したところ、かねてよりの懸案を思わせる情報が該当しました。すぐに現場を調査し結果を報告いたします。   調査官 ニコルより

 雑踏。大勢の足音や声がこだまして、一体となった心地よい騒音を作り出している。エルメデの街中を貫く大通りを、ニコルは慣れた足取りで歩いていた。
 港湾都市だけあって、昼間のこの時間帯は、港で働く大勢の老弱男女が、ひっきりなしに道を行き来しては、それぞれの用向きを忙しそうに果たしている。活気のある雰囲気が、道行く人々の表情を明るくしていた。時々、フォークリフト車両によって運ばれる、大きなコンテナが通る。人々は慣れたもので、声を掛け合ってすばやく道をあける。エルメデの主たる輸出品である、魚介類や甲殻類の缶詰が、リフトには山と積まれていた。
 そう、いつもの、街の光景だ。何も変わらない。どこもおかしくない。今のところは。ニコルの姿を見掛けて、慣れ親しんだ間柄の労働者仲間がたびたび声を掛けてくる。ニコルはにこやかに応じながら、街のそこかしこを眺め、懸念されている非日常的な変化が潜んでいないかどうか確認していった。
 海岸線から少し奥まった辺りの、広々とした平地を開拓して作られた、労働と生産のための地区である。アーキテクトたちによって管理されたそこは、近代的で清潔な労働環境として整備され尽くしているといえた。
 役割分担ごとに分かれた大勢の若い男女たちが、漁獲された原料から、最終的な生産物に至るまでの中間行程を、きびきびとした動作で精力的にこなしていくのを眺めながら、ニコルは、その壮観な光景を好ましく感じた。美しいとすら思う。ここには、働くための場所が確かにあり、人々はそこで、慎ましくも豊かに暮らしていけるのだから。
 折しも、労働と労働の合間の、一時の休息の時間となった。エルメデの労働区画で働いていた大勢の労働者たちが、手を休めると、笑顔と雑談を交わしながら、身体を伸ばす。誰からともなく、同じ歌が広がっていった。労働を賛美する、喜びの歌。エルメデで生きる者たちの誇りとなっている歌声が街に響きわたる。ニコルも立ち止まり、その鼓舞するように勇ましいリズムに唱和した。短い歌だ。すぐにまた、街にいつもの騒々しさが戻ってくる。それを合図にして、労働者たちはまた、それぞれの作業に戻っていった。
 ふと視線を上げると、エルメデを統治するアーキテクトたちが働いている区画と、郊外の彼ら専用の居住区とを結ぶ高架列車が、ひっそりと、労働者たちの高揚とはやや距離を置くようにして、彼らの視界の外を移動していくのが見えた。それもそうだろう。アーキテクトたちの生活、日常は、それ以外の者たちにとっては、それほど緊密には交わらないものなのだから。少なくとも、港湾で働く労働者たちにとっては。
 だが……ニコルは、やや離れた場所で、彼自身と同様に、アーキテクトたちの列車が高架線を通り過ぎるのを、顔を上げて眺めている者がいるのに気づいた。この、彼らが高揚のもとに唱歌したばかりのタイミングで。列車の通り過ぎるのを、見ている者がいる。不信感が、彼の警戒心を刺激する。もっと詳しくその人物を確かめようとした。だが、その動作は一瞬のものであったためか、ニコルは彼を雑踏のなかに見失ってしまった。
 たまたまに違いない。この、愛すべき日常の日々を侵害しようなどと企む者が、エルメデの街中にそうそうありふれているはずがないのだ。ニコルは気を取り直して、彼の目的地へと向かった。
 海岸線から距離を経るごとに、標高が増していく。アーキテクトたちがエルメデの統治を行っている専用区画は、背後にそびえる山の頂きを背にして、港湾から海の先までを見下ろせる高みに位置していた。街全体を視覚的にカバーできるこの場所は、それほどの広さがないため、彼らは山の麓に居住区を持っている。日々、高架鉄道で山を登り、統治のための地区まで通っているのだった。
 ニコルが現地に到着すると、すでに何名か集まっていた労働者たちのうち、顔見知りの者が、気さくに声を掛けてきた。
「よぉ、ニコルじゃないか」
「目ざといな。高給に惹かれてきたか?」
「まあな。俺も運がよかったよ」
 何気ない風を装って、そんな言葉を返しながらも、抜かりなく周囲を観察する。その場所は、高架鉄道の架線に隣接する、比較的中規模の貨物倉庫だった。
 港湾労働地区で生産された缶詰などの品が、輸出されるまでの間の一定期間、低温で貯蔵されている場所。倉庫で使用される様々な電力需要を賄うために、敷地の一角にあるガスタービン発電器が稼働している。だが、配管の故障により、現在はその電力供給に一部支障が生じており、その対策のために労働者たちが集められたというわけである。
 ニコルは、仕事の準備にかこつけて彼らから離れると、建物の中に入っていった。彼以外のメンバーの視界から隠れると、即座にすばやい動きに切り替えて、周囲に異常がないか確認していく。といっても、広い倉庫に、彼ひとりだけの探索だ。時間も限られている。復旧作業が開始されれば、姿を隠しているのにも限度があった。
「誰なんだ。何を企んでる……?」
 数日前に、依頼者のヨルテが伝えてきた、ある懸念。エルメデの平穏を乱す行為が現在進行形で画策されている可能性があるということ。未だ姿の見えていない策謀を、ニコルは忌々しく思った。愛すべき街の平穏を、乱すことは許さない。そんな思いとともに、建物の地理的な要因から想定される異常事態を探して建物内を点検していく。一見、何もないかのように見えた。
 だが……。彼もプロだ。しばらく巡回するうちに、あるひとつの変化に気がつくと、その場所にうずくまり、詳細に確認した。床と壁の、ある部分。本来であれば有り得ないほど、その付近の床に足跡の痕跡が散在している。不自然さが感じられた。埃が積もっていたはずの地面が乱れている。新鮮な、湿った泥が、散らばっている。ガスタービンエンジンの燃料が伝搬されている配管が通る一角。ニコルはそっと、壁に作りつけられた点検用のパネルを動かして、内側を見た。
 思った通りだ。雑な仕事でありながら、それなりの手際で、簡易な起爆装置が、ガスの配管の接続部分に縛りつけられている。解除の妨害を真剣に考慮していない、シンプルな構造の爆発物だ。ニコルは内心で胸をなで下ろすと、すばやく装置の配線を指先でたどり、躊躇なく、一本のケーブルを引きちぎった。何も起こらない。それはそうだ。起こっていたら一大事である。仕掛けられていた装置の起爆は妨害され、すでに無力化されたのだ。
 バックパックに、配管から取り外した装置をしまうと、ニコルは元あったように、つまり、装置を仕掛けた痕跡すら残らないように現場を片づけた。そして、何事もなかったかのように建物の外へと向かう。この間、10分と経っていなかった。
 それでも、重要な施設だけあって、労働者のなかでもベテランの者たちが現場を警備しているため油断はできない。ニコルは、配管の修理業務以外にこの場には何の用もない、という風で、通路を行き来する警備員を何人もやり過ごすと建物の外に出た。ちょうど、復旧作業の開始されるタイミングだった。
「どうした。早くしろよ」
「すまん。ちょいと用足ししてた」
 ニコルたちは、表向き用意されていたガス管故障の復旧という作業を開始していった。ニコルの手荷物に含まれている、時限式の起爆装置。これが解除されたことは、すぐに、仕掛けた何者かに伝わるだろう。いずれにしても、任務完了である。

「あっけなかった、といえば、それまでだな……」
 自分だけが見て、対処を済ませた件以外には、特に異常は見当たらなかった。故障修理の業務を発生させるために偽装的に仕組まれた「ガス管の故障」を淡々と修理しての、帰り道である。
 修理業務に加わった者たちはそれぞれ、イレギュラーな業務にアサインして高給を受け取れたことに喜びながら、三々五々に帰っていった。いい気なものである。破壊活動を行った「何者か」は、明確に、彼らの修理の不手際をこそ、事件の直接の要因にしようとしたというのに……。
 だが、そうした問題に対処することが、ニコルが日々、労働者たちのなかにいながら、ヨルテの組織の一員でもあるという二重生活を送っている一番の目的である以上、彼はもうそれ以上の疑問は抱かなかった。難しいことは何もない。不穏な試みは排除する。それだけなのだから。

 ふと目を上げると、通りの反対側を、ひとりの女が急ぎ足で歩いてきていた。若い女だ。やや小柄で、ほっそりとしており、それでいて肢体のバランスはよく、全身からみずみずしさが感じられた。おおよそ、労働者の街であるエルメデには似つかわしくないような美女だ。物思いに耽っていたニコルが、目を奪われ、現実に注意を引き戻されるほどの存在感が、彼女にはあった。
 何か、うまくいかないことでもあったのだろうか。まるで、自分自身が仕掛けた爆発物が、想定通りに起爆しなかったので、慌てて現場の様子を確かめに行こうとしているようだったので、ニコルは一瞬、目を細めたが、すぐに、そんなはずはないと自らの早急な考えを一笑に付した。
 女が、真横を、通り過ぎる。間際で見る、その美貌、伸びやかな脚線美に、どうしても目を奪われてしまう。すぐさま、微かな残り香と、さらりとした長い髪の先端を視界の端に残して、彼女は去っていった。
 あえて、振り切るように、彼自身の目的に意識を集中すると、ニコルは足を早めて、エルメデの街へと向かった。

 少し後。郊外のバーで、ニコルはひとりで酒を飲んでいた。騒然とした店内では、その日一日の労働を終えた労働者たちが、それぞれ楽しげに振る舞い、酒を飲んでは英気を養っている。煙草の煙とクラシカルな音楽が、年季の入った建物に満ち満ちていた。小さくても賑わいのある店の片隅のカウンターで、ひっそりと酒を飲むのが、彼の密かな楽しみだった。
 そんな、いつもとさして変わらない、エルメデの労働者としての自分が過ごす日常の時間は、長くは続かなかった。彼のもうひとつの領域……労働組合第三課、つまり、人知れず、日常性を侵害する者や動きを探査する組織の、調査官としての部分が、小さな異常を敏感に感じ取ったのだ。
 まったく。落ち着いて酒も飲めやしない。ニコルは、外見からはまるで、何かに気づいたということすら感じさせないながらも、自然な一連の動作で、斜め後ろに固まって座っている男たちの集団に視線をやった。
 あるキーワードが、彼の注意を引いたのだ。見ると、周囲の労働者たちと取り立てて違わない風体ながら、その表情は険しく、何事かに苛立っているようだった。頭を寄せ合うようにして何かを話し合っている。いったいどうして……失敗……誰かが……。そんな、聞こえるとも聞こえない声を頼りに彼らを観察する。彼らの外見。特に改変が不可能な素顔や背格好、動作と声色の特徴などをセットで頭に叩き込むと、ニコルは何気ない風に席を立ち、会計を済ませて店の外に出た。
 このままでは終わらないだろうな……。そんな確実な予感が頭をよぎった。忙しくなるだろう。歓迎はできないが、俺は、やるべきことをやるだけだ。アパートメントへ向かいながら、ふと、頭上を見上げた。だんだんと寒くなってくる季節だけに、夜空が澄んでいて、満月が空の中ほどの高さに浮かんでいた。雲は少なく、見渡す限りの星空が広がっている。その美しさに見惚れながら、そっと吐き出した息が、白く曇って、一瞬後には消えていった。

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