立方体都市 第一章 立方体都市 夜を徹して働いていた。そりゃそうだ、この街には夜しかない。太陽を失った街。アイデアシティには、朝は来ない。世界の終わりの日まで。皆、朝日を望みながら、必死で働いている。生まれては消える、そのくり返しを、愛の響き合いで繋ぎ合わせながら。そう思った途端、世界が揺れた。 何事だと思う間もなく僕は気づいてしまった。奴だ。イレイザーが来た。大切な書類たちを収納した棚が音を立てて崩れるなか、僕は、何はなくとも彼女の姿を探した。だがすぐに、ぎらつく銃口を下げた黒い戦闘服の男たちが部屋になだれ込んできた。僕はとっさに身を隠す。死が火を噴く。 イレイザーは、アイデアを、消去する。ならぬ!! その姿で、あってはならぬ。消しゴムのモチーフに、文字たちは敵わない。なすすべもなく、追いやられるしかないのだ。だが、諦めない。僕は、諦めない! という文字を全身にみなぎらせて、消しゴムの無慈悲な衝撃に耐えようとした。 イレイザーたちは、満足したのか、部屋を去ったようだ。ふっ、甘いよ。消し残しだ。僕は生きている。はっとして、瓦礫と化した消し屑たちのあいだから這い出すと、僕は、ゆらぎ子のところへと向かった。大切な彼女を、消されてたまるか。手のひらに汗がにじむ。すぐに、見つかったよ。 彼女は、歌いながら、そこにいた。僕を待っていた、そんな感じで。少しも、消されることを恐れていない。彼女はいつだってそうだ。手のひらに汗を浮かべて、こうして駆けつけてきた僕をあざ笑うかのように、僕の瞳の奥を覗き込むのだ。逃げよう。僕が短くそういうと彼女はついてきた。 タクシーが外で待っていた。運転手の男は、粛々と僕らを乗せると車を出した。ビルが遠ざかる。アイデアシティの車通りはまばらだ。ほんの少し進んだところで、背後でビルが爆発する轟音が響いた。車もそんな轟音に驚いたのか止まり、震える。ビルはもう駄目だろうかと、腰を浮かせた。 その途端。何かが引っかかった。何年も掛けて積み上げた文字たちを、同じ文字である僕が、守ろうと腰を浮かせたんだ。憤り振り返ると、僕の「左手」が、彼女の「右手」によって、握られていた。彼女との繋がりがきしんだ。行かないで!! その文字で、全身全霊をいっぱいにした彼女。 僕は、彼女の手のひらにも、汗がにじんでいるのを感じた。炎が、夜空の闇を照らしている。大切な文字が燃える、燃える。焦る。頬を汗が伝うのが分かった。ゆらぎ子が手を離さない。運転手を見た。目をそらすのかと彼女が手を握りしめたとき、その強さに、僕は諦めた。車は走り出した。 アイデアシティは、売れない創作家が頭の中に構築した、情緒不安定な世界だ。住人たちは、彼の本が少しでも売れるようにと、必死で働いて暮らしている。文字たちの街。どんな言葉も住むことができる。ただの言葉でよければ。言葉の連なりが世界を構築する、その繋がりこそアイデアだ。 言葉たちは、彼が幼いころから、アイデアシティを開拓してきた。始めは何もなかったらしいよ。だが、創作家が壁にぶつかる度に街は大荒れに荒れたと、歴史書は語っている。ならぬ! その姿でいてはならぬ、と、イレイザーたちが、せっかく命懸けで積み上げたアイデアを駆逐するんだ。 僕は、いつからか生まれた。気がついたら、ここにいたんだ。僕は、絶対夫。弱い力を司る。創作家があまりにも愚かだから、僕が生まれたんだと思う。ありえないことを望むよ。何か問題が? 僕が連ねる文字は、空虚だ。冷たくて、笑わせてくれる。単なるジョークにはもってこいだがね。 皆が、僕を絶対夫と呼ぶので、僕はその名前を受け入れた。今、車に乗っている彼女は、ゆらぎ子。僕の唯一の彼女だ。創作家にすら彼女がいないのにね。いや、だからか。彼女はすごいんだよ。僕がゆらぎ子と呼んだだけで、受け入れてくれたくらいだ。他人の呼び名には耳を貸さなかった。 ゆらぎ子の力は、強いよ。創作家が寂しかったので生まれたのかな。あるいはもっと別の理由かもしれない。絶対夫である僕にそこまで分かるはずがないじゃないか。無理をいうなよ。彼女の力は包み込む力。僕の力は殴る力だから、ジャンケンで彼女に勝ったことも、引き分けたこともない。 絶対と、ゆらぎと、運転手と、車。僕ら文字たちは、作品が完成するまで朝の来ない街を、ひたすら飛ばした。古きよき歌と音楽が流れている。ゆらぎ子が、アイデアシティから持ち出したんだよ。イレイザーの目を盗んでね。僕は、彼女も、彼女の歌も好きだ。とても惹かれるんだ。きれい。 車は街を出て、真夜中の海へ。灯台のある海岸。創作家は、イレイザーたちを、なぜかこの場所には近づけたがらないんだ。絶対にね。何がそんなに、ここにあるんだろうか。灯台の目が、ぐるぐると、回る。なぜだ、なぜだ、なぜだ。僕には、あの光が、何を求めているのかが、分からない。 車を降りて、崖道を歩くと、海風が通り過ぎて気持ちよかった。ゆらぎ子は、タクシーから聞こえてくる音楽に合わせて、歌を口ずさんでいる。彼女の髪が、潮風に流れて揺れる文字の連なりが美しくて、すてきで、僕は言葉を忘れそうになる。彼女が好きだ。その文字で埋め尽くされるんだ。 灯台の光。真夜中の海。海岸。物語が完成したとき、最初に光を浴びる場所だそうだ。誰にも分からないように、そっとその場に印をつけた。紙に、刻印したんだ。いつかこの場所を訪れることを信じていたから。絶対夫である僕こそが、きっとイレイザーの目を抜けて、朝を迎えてやるんだ。 タクシーの運転手は、煙草をくわえて、何もないように見える夜空を見ている。煙という文字が空を流れると、星がまたたいているのが見えてきた。この男は、タクシーの運転手だ。僕らが創作家の頭の中を移動するときに、彼はいつもタクシーを出してくれる。便利な男だ。車も高性能だよ。 イレイザーたちは、創作家が悩んだ末についに駄作だと決心したアイデアを一掃し、きっと今ごろ、何事もなかったかのように白紙のビルが用意されている。まったく、こっちの苦労を何だと思っていやがる。まあ、創作家にも事情があるだろう。彼がこうしたからにはチャンスでもあるんだ。 ゆらぎ子と僕だけが、駄作として処分されたアイデアの連なりから、生き残った。今こうして、イレイザーの入り込めない場所に、逃げることができたんだよ。いいじゃない、彼女と僕と、この物語は、二人が主役なんだから!! 僕らふたりが、合わさって、創作家なんでしょ。間違いない。 僕は、灯台がぐるぐる回る、その光をぼんやりと見ながら、決心した。ゆらぎ子とふたりで、絶対にイレイザーに負けない言葉の連なりを、画期的なアイデアを、この世界に作ってみせるってね。すばらしい世界になる。間違いない。僕は、絶対夫だよ? 僕がいうからには間違いないんだよ。 何事もなかったかのように、アイデアシティに平穏が戻った。何事もなかったわけじゃない。昨日までの言葉たちが消えている。跡形もなく。これじゃ、いつまでも夜は終わらない。僕ら文字は寝る必要すらないから、別に困らないがね。さあ、新しいアイデアを構築しよう。「立方体都市」 観測によると、創作家の世界は、この街以上に混沌としていて、悲惨で、やるせなくて、見ていられないものらしい。頭の中から見ていてそう思えるくらいだ。目を持っている彼は、かなり困惑しているだろう。困ったもんだ。街が荒れるし、物語が途中で破棄されると、また逃げなくちゃね。 時間がちくたくと流れた。この世界には一応音もあるんだ。ちく、たく、ちく、たく。文字が、聞こえるだろう? 一事が万事、そんな感じなんだよ。頭の外と違うのは、ここには文字しかないのと、太陽がのぼらないこと。朝が来たってことは、「上がり」なんだから。昼夜逆転もない徹夜。 灯台の光が何を見ていたのか。なぜだ、この言葉の文字から、推し量ることにしよう。イレイザーが、僕らが何年も掛けて築いてきたこの世界を消したということは、その内容じゃ、この世界には朝は来ないってことだ。灯台の目が何を見ているのかは、僕ら文字は直接は見られないんだよね。 シュレディンガーの猫。この世界の住人である彼が、いきなり、僕の部屋をしゃっと横切った。彼は本当に唐突なんだ。よく見ないと、いるかいないかすら、分からない。この世界では、彼はとても尊重されている。非常に強い力を持っている。ワイルドカードってやつだ。僕は、素知らぬ顔。 時間が過ぎていき、戸棚がまた増えてきた。イレイザーの気配に敏感になりながら、神経質に、僕は部屋をうろうろする。灯台が回り続けている。創作家の目であり、そして、それ以外の何かでもある場所。彼が何を求めて、何を失いたくないのかはゆらぎ子とふたりじゃないと見えないんだ。 ゆらぎ子は、歌いながら、独特の言葉を紡いでいる。その織物のようなやわらかくて触り心地のいい感触に、僕はいつもうっとりする。僕は彼女の彼氏だけど、部屋は別なんだよね。自分の机に戻ると、またもや、しかつめらしい構造物が目に入る。僕は、ゆらぎ子が、もう懐かしくなるんだ。 珈琲という文字を、喉という文字に流し込みながら、僕が机の前をうろうろする。シュレディンガーが、またしゃっと横切る。舌打ちをしながら、文字をなおす。乱すんじゃない。乱すんじゃない。バランスが崩れるだろ。僕の構築したアイデアシティの、この理路整然とした美しさを見なよ。 しかし、シュレディンガーの猫というのも不思議な生物だよね。僕は、気分転換にゆらぎ子とデートしながら(はっは、ざまーみろ創作家)、猫のことを話題にした。ゆらぎ子も、猫を見て、少しだけ目を細めている。お気に召さないようだ。猫は魚という文字を連発しては食いまくっている。 だいたい、犬という文字を名前の連なりに持つ創作家が、猫を頭の中に飼っているなんてどうかしているよ。しかも、書いてみないと、どんな文字になるかも分からない、単なる不確定でしかない彼を! 絶対夫である僕の言葉を、汚い足で乱すんだ。アイデアシティに彼はふさわしいのか? ゆらぎ子は、にっこりと笑った。僕の頬に、赤という文字が浮かんだがすぐ消えた。彼女の笑顔はいつもすてきだが、その意味を解釈するのは難しい。ほんと、よく持っているよ、このカップルは。アイデアシティの謎のひとつ。そうそう、街がどんどんできあがってきたよ。見てごらんよ! イレイザーの大群は、まだ一度も押し寄せていない。今回の街作りは、結構いけるんじゃないの? 僕はそう思う。灯台の目が、ある一定の傾向でもって、対象を照らしていることを、僕はすでに知っている。シュレディンガーにはばれていないよ。当然だろう。僕がそんなヘマをするかね? 創作家は、どうやら、現実の世界が、気に入らないらしんだ。なぜだ、なぜだ、と、灯台が回り続けている。これを知っているのは、今は、僕だけだと思う。隣で歩いているゆらぎ子は、どうか知らない。前にもいっただろう。彼女のことを理解するのには、僕という文字では不足なんだから。 大丈夫。頭の中に、絶対夫である僕と、ゆらぎ子がいれば、きっと、いつか朝がくるに決まっている。創作家は焦っているよ。頭の外では、もうかなり時間が流れているから。朝と夜と、朝と夜と、朝と夜。一日という文字が、ぐるぐる回っている。灯台の光のようにね。こちとら夜だけだよ。 たまに、タクシーに乗って、アイデアシティを離れてみる。俯瞰することも、大事だからね。それを知っている僕こそ、アイデアシティにふさわしいと思わないかい。シュレディンガーは、タクシーに乗れないんだ。無様な猫め。高さのある場所に来た。紙の世界では珍しい、本来はない場所。 ある程度高さがあるだけで、紙の上に並んだ言葉の連なりが、まったく違って見えてくる。その視点にうっとりしながら、僕は、今までに書き連ねてきた、言霊を、再度、よく確かめてみる。ここまできたら普通イレイザーは手が出せないはずだけど、創作家は馬鹿だから、この前みたいにね。 言葉の繋がりは、この世界では、すなわち、意味となる。頭の外を、ぐるぐると回る光の目で眺めて、創作家が考えたことを、整理するのが僕だから。最近の流行は大事だ。非常にね。流行と対策だよ。頭の外の世界に、創作家は、理想という力で対策することにした。理、ことわりを、想う。 それってつまり、僕ってことでしょ? シュレディンガーのやつ、たまに名文を組み立てるからっていい気になっているが、あいつの言霊は、でたらめだ。単なる猫の足跡にすぎない。ぺた、ぺた、ぺたぺた、にゃー。くっ、くだらない! やめてくれよ。勘弁して欲しい。整然とした世界! 僕がどこにいるかって? 世界の、だいたい真ん中らへん。重要な機密だから守って。猫の足跡がつくからさ。ここは、頭の外で、積み重ねられている紙の世界が、折られている場所だ。普通、文字は誰も近づけない。けど、僕は見つけた。ここからだと別の視点という文字が手に入るでしょ。 文字を、組み立てる。並べていく。理想の砦が構築されていく。僕はこういうのほんと得意だからさ。食べ物がない。住むところも、着るところもない。殺される。じゃあ、食べ物を作って、住むところを、着るものを作って、塀を築けばいいでしょ。立方体都市に、瞬時にそれらが生まれた。 理想の砦は、またたく間に大きな城になった。文字の連なりでできた城だけど、こうして世界の中心から見ると、これまた見事な説得力だよ。うっとりするでしょ。頭の外の世界も、かくあるべし。すべての矛盾に、ピンポイントで答えが示されている。何の矛盾もない。猫もどこかへ行った。 地震が、自信を、揺るがす。おっと、何だい。またイレイザーか。今さら? そんなはずはない。僕は、それでも、ゆらぎ子の部屋へ行った。すぐにね。彼女を見て、ほっとする。おかしい。彼女が不安そうにしている。何だろう。どうしたんだろう。くっ、僕は絶対夫だから、分からないよ。 彼女は、うつむきながら、自らが紡いだやわらかい生地を撫でている。伏せられた目は、僕のほうを見ていなかった。ふ、ふん。そんなにその生地がいいの? 僕の城だってなかなかのものだよ。見てごらん。創作家の頭の中は、今や僕の作った城で満たされている。満たされているんだよ! ふいに、彼女が、涙を流した。僕の城は、揺らいだ。衝撃で、空気が痺れる。どこかで、猫が叫んだ。実にいい気味だが、こっちはそれどころじゃない。だって、彼女が、ゆらぎ子が、泣いているんだ。僕は彼女の手を取り、珍しく、僕のほうから目を覗き込もうとする。彼女だけは謎なんだ。 一緒に例の場所に行った日のことを、僕だって覚えている。今度の話は、絶対にいけるって。僕は身振りを交えながら、というか、絶対にいける! という文字で全身をいっぱいにして、彼女に力説する。だが彼女は、力なく首を振るだけだった。そういう考えがイレイザーを増長させるのに。 僕にだけある、秘密の場所。紙の世界の真ん中。盛り上がるところ。そこから得た視野は、彼女にもまだ明かしていない。彼女はずっとここにいて、灯台の目の見ているものがよく分かると思う。彼女の言霊は、とてもやわらかい。触ると、やさしい手触りにうっとりするんだ。猫、汚すなよ。 理想はついに、紙の世界を、覆うほどになった。世界は積み上がって、高さが生まれたよ。僕は、世界の真ん中に立つ必要はなくなった。創作家が頭の中に積み上げた紙束を、縦横無尽に、駆け巡っている。整然と組み立てられた絶対の力を駆使してね。これでもまだ、朝日は来ないのかい? そういえば、猫はどうしたんだろう。最近、姿が見えないな。そう思っていたら、いたよ。相変わらず、しゃっと横切るんだから。やめてくれよ、その移動を。歩くならまっすぐ歩きなよ。足跡をつけるな。そのしっぽは何だ。曲がっているじゃないか。だからお前は駄猫なんだよ。まったく。 創作家を誘導して、僕が世界を握った。そりゃそうだ。あの灯台に、海が見える海岸に、僕にしか見えない印を残してある。いつでも、灯台の目が見ている頭の外の世界を、知ることができるから。最近、猫を見ることがまた多くなってきた。実に不快だよ。立方体都市に猫などいらないのに。 突然、また、自信が揺らいだ。驚いた僕は、慌てて、世界が崩れないかどうか、確かめに走り回った! 薄い紙に、文字の連なりを整然と並べて、築いた構造物。すでに紙は相当な厚さになっている。四辺が同じ長さになりつつある。紙が、四角く立ち上がってきたんだ。どうだ、すごかろう。 考えてもみてくれ。もう、頭の外では相当時間が経っているのに、イレイザーたちは姿を隠したままだ。創作家は、安心しきっている。このまま逃げ切りだ。何からって、イレイザーたちだよ。ゆらぎ子の様子がおかしい。猫も信用できない。もとからだ。あのやわらかい生地を、僕に隠した。 ゆらぎ子も、猫も無視して、僕は、立方体都市の中を縦横無尽に点検する。書き損じはないか。抜けはないか。徹底的にね。頭の外には行ったことがないけど、こうやってさ、きちっと、やることをやってれば、きっと朝がくるんだよ。ゆらぎ子には、朝日を見せてあげるから。そこで謝ろう。 また、地震。いったい彼は、何をやっている! 絶対夫である僕が、ここまで、長い長い夜のなか、立方体都市を築いてあげているのに。そんなに不安なの? ゆらぎ子が何かしているのだろうか。彼女が紡いだあの生地は、今、どんな姿なんだろう。創作家は、なぜ、猫を生かしておくのか。 久しぶりに、ゆらぎ子と一緒に食事をした。珍しく、彼女の上機嫌な笑顔を見ることができた。きっと、生地の進みがいいんだろう。僕も、なぜか少しうれしくなった。アイデアシティは、ひとつだから、彼女と僕のどちらかしか、存在できない。そんな疑念が、一瞬だけ、芽生えて、消える。 灯台の目が、最近、いろいろなものを観測するようになった。こっちは大忙しだ。今までにないこと。絶対夫である僕としては「猫の手も借りたいところ」だ。そりゃ、悔しいよ。言葉である僕が、こんな言葉を! 悔しい。だが、やつがいたことはこのひと言でもって報われるかもしれない。 ゆらぎ子と、喧嘩になった。頭の外の世界について。絶対夫である僕が整然と整えた構造物を、手放せというんだ。イレイザーを呼ぶように仕向けてまで、そんなことをするなんて。今までの長い夜は、何だったのよ。彼女はにやりとして、いった。ジャンケンで決めようと。馬鹿いうなよ! 創作家だって、伊達に、これだけの構造物を、構築したわけじゃない。僕の苦労は、頭の外の世界での、彼の悩みや苦しみなんだよ。それを分かってて、そんなこというわけ? 興奮するそばから、猫がしゃっと横切る。やってられんよまったく。彼女は、目を細めると、やおら引き出しを開 突然、紙の世界が、びりびりびりと震えた!! イレイザーなのか!? この衝撃は、間違いない。頭の外で、何かがあったんだ。激しい地震で、自信は崩壊寸前だ。こうなると、絶対夫である僕は弱い。力は、失われた。ゆらぎ子だけでも助けなきゃ。僕たちは、ふたりでひとりなんだから。 引き出しの中身を、ゆらぎ子がようやく引っ張り出した。僕はそれを見る暇もなく、彼女の手を引いて走る。偉容を誇っていた立方体都市は、異様な姿になっていた。紙の世界だったのに。せっかく、何百枚も、この世界を積み上げて、高さを築いたのに。世界は根本からすべて激変したのだ。 今までおとなしくしていたはずのシュレディンガーが、急に飛び跳ねまくっている。やつめ、今さら何をするつもりだ? もうこのアイデアは駄目なんだよ。頭の外の世界で致命的なことがあったに違いないんだから。しかし、身をすくめて待つあいだにも、イレイザーたちは、来ないようだ。 さらに、衝撃が走り、文字たちは、吹っ飛んだ。いや違う、吸い込まれたんだ。紙の大地は、なくなっていた。すっかりなくなっていたんだ。何やら、四角い、板の上にいるのが分かる。ゆらぎ子も、猫も、驚いて目を見開いている。膨大な言葉の連なりは、どこへいった。灯台は、あるか? アイデアシティ。売れない創作家の頭の中。灯台の目が、ぐるぐると回っている。僕は、印を手がかりに、変容した世界を抜けて、ここへ戻ってきた。地震が何度も揺らぐこの街で、灯台がずっと、なぜだ、なぜだ、と回り続けていたんだ。この場所だけは、変わらないはず。僕は灯台を見た。 僕が見た灯台と、違うようで、同じ灯台が、そこにあった。この建物は、創作家の、まさに目なんだよ。今までと、違う光で、違うものを見ている。光は、海の彼方まで伸びて、暗黒の世界を照らしているようだ。そして、海の彼方からも、同じような光が伸びてきていた。光が交錯している。 すばらしい、すばらしい、最高だ。灯台は、見たこともないほど、強くて明るい光で、海を照らしている。頭の外の世界の情報が、膨大に流れ込んでくるのが分かる。この時点で、立方体都市は崩壊した。背後で、その大きな地震の音だけが聞こえた。ああ、また、長い夜の世界が続くんだよ。 ゆらぎ子が、街から持ってきた、どこかへ隠していた、あのやわらかい布を、僕の肩にそっと掛けてくれた。それは、僕のサイズにぴったりの、手製の上着だった。その手触りを確かめて、僕はうっとりした。彼女を抱きしめようと、振り返ると、彼女はいなくなっていた。そんな予感はした。 灯台のふもとに、一匹の犬が現れた。その身は小さい。だが、不思議と、「これならいけるでしょ!」という感じを、漂わせている。それでいて、触れば、きっと、やわらかくて、温かみのある、不思議な毛皮をしているんだよ。この毛皮は、昔僕が好きだった女の子が僕に紡いでくれたんだ。 犬が吠えると、突如として、夜が明けてきた。犬は、目を細めて、その光を眺める。灯台が照らす先から、無数の光の筋が伸びて、闇を打ち消していく。その光景を、犬である僕は美しいと思った。明けない夜の街、アイデアシティに籠もって、言葉の連なりを紡ぎ続けてきた日々は終わった。 猫が、しゃっと横切る。彼は、シュレディンガーの猫。この、売れない創作家の頭の中に住んでいる、僕の友人だよ。彼は猫で、僕は犬だけどね。それにしても、いい朝日だよ。作品は、もう完成しただろう? シュレディンガーが、足跡をいっぱい残してくれたから、しっかりと辿れるんだ。 灯台の目の光が、十分な明るさを得て、闇を照らし抜いたから。夜が明けたんだ。売れない創作家の、頭の中の夜がね。海の向こうでも、四六時中、無数の光が、ぐるぐるまわっているよ。見えるだろう? その温かさを感じながら、僕は、誇らしげに大切な毛皮を手入れする。猫、汚すなよ。 ふいに、気がついた。イレイザーの群れが立ち去る足音が聞こえたような気がした。まっさらな地面にうつぶせで倒れていた。今までにも何度か経験した。これが挫折。そして、幸せ。僕は今、人間として生きている。イレイザーは僕を消し残してくれた。今こそ、愛に生きるチャンスだ。完 >第二章 価値観戦争 >>トップへ戻る